弁護士 八尋光秀
この支援会は、薬物依存症からの回復を目指す人たちを支援するために結成しました。活動は、九州ダルクを立ち上げる準備の時からで、もう30年になります。
実際は、九州ダルクや九州ダルクに集う薬物依存症の仲間たちを私たちが支援するというより、いろんな形で彼らに支援されています。それは支援会の私たちだけではありません。地域の皆さんにとってもおなじです。
薬物依存症から回復するための道を築くことは、地域や社会の宝になります。
20年以上前になりますが、大学で講義を担当していたことがあります。はじめの1回目の授業は、必ずダルクの仲間の話を聞いていただきました。
「この頃の学生は態度が悪くて、失礼をするかもしれません。」と、学部の教授から先におわびをいただいたような時代でした。
教室一杯の新入生を前に、ダルクの仲間は、生い立ちから、薬物にはまっていく経過、そこで見てきた風景、依存薬物からの脱却、ダルクでの生活など、緊張しながら語ります。淡々とした、そして正直な語りに、なったばかりの学生たちは耳をすませ息をひそめて聞き入りました。
「今日彼らが話したことはここだけの話にしてください。彼らは自分のことを精一杯話しました。皆さんもよろしかったらなにか書いてください。」そう言って終わると、次の週には参加した学生のほぼ全員から返事をいただきました。
ダルクの仲間は、毎日ミ-ティングを複数回行ないます。車座になって、思ったことを正直に話す。言いっ放しの聞きっ放し。批判も意見も一切ない。アノニマスネ-ム(仮名)で語り、そこで語られたことは外に持ち出さないというのがル-ルです。
九州ダルクを立ち上げて10年を過ぎたころ、地域の人たちとの付き合いも根付きました。そのころもまだ薬物依存症といえば、どうしようもない非行、犯罪で、回復も未来ないと信じられていました。到底、地域や社会には受け入れられない、病院、少年院、刑務所で隔離し続けるだけと思われていました。
九州ダルクの真向かいにある公民館の館長さん。ダルクを地域に受け入れながらも決して甘い対応はせず、地域の顔としてダルクに厳しくされていました。その館長さんが亡くなられる少し前のこと、私にひとり語りのように話されました。
「私は館長しながらダルクに何度も奇跡ば見せてもらいました。ダルクに集まる若者は、とてもとてもまともじゃなか。ごげなふうになった子をもつ親御さんは、たまらんやろうと思いました。それが何年かたったころ、その角のスーパーでレジ打ちようとば見たです。私は泣こうごと感激しました。はよう親御さんに見せたかと心底思いました。」
ダルクは仲間との居場所です。薬物依存症から回復するためにはダルクに入寮し、通所する必要があります。そしてダルクの運営費は毎月不足しています。
皆様の支援を心よりお待ちいたします。