【NewsLetter189】薬物依存症のマサ

7月に6年のバースデーを迎える事ができました。5年までは勢いでいける、という仲間の言葉を、「あぁ、こういうことか」と身に染みて感じています。

数年前までは他にもスタッフがいて、自分の問題を見なくても、どうにかなっていた時期は過ぎ、今私は素面での底付き状態です。

私の父はアルコールに問題があり、母親はいつも何かに怒っていました。母と父の間に立ったのは、喧嘩をされたら、その矛先が私に向けられるのが嫌で、常に喧嘩が始まらないか、少しでも声が大きくなってこないか、とビクビクしながら親の顔色を窺っていました。

その時は二人の間に立とうが立つまいが、 結局私に向けられる暴力がなくなる事はありませんでした。

その頃から人の顔色を窺うことと、親に認められなかったものを社会や他人の評価の中で得ようと必死になる事で自分というものを作り上げてきました。

薬を止めるために入院した病院や、初めて繋がったNAで、「生き辛さ」という言葉を聞いた時、私は今までこれでやってきたのに、今更、生き辛さと言われてもそれが当たり前なのに、と嫌な気分になりました。

でも、それでずっとやってこれたのが現実です。なかなかそれを認めて受け入れることができず、いつも誰かや何かのせいにしてすべてが嫌になってしまいます。

助けを求める事が私にはとても難しいのです。難しいというよりは単に昔からの自分のやり方にしがみついて変わりたくないと思っています。

薬を使っていない今、私の本当の問題が目の前に山積みになっていて、今やるべき事が分からずに自分の考えを使って、余計に訳が分からなくなっています。自分の中で大きいと思う問題ばかり見て、小さな事が全くできていません。空回り状態です。

最近できなくなったわけじゃなく、最初からできないんだ、と言われて、その言葉には、「なるほど」と思うものの、行動が伴いません。

アディクトは薬を使わなくても死んでしまうということを私はすぐに忘れてしまうのでしょう。「誰かが」でも「なにかが」でもなく、自分はどうなりたいのか、ですよね。

カテゴリー: 189号(2015年9月), ニューズレター タグ: , , パーマリンク